豊かなる貧しさ
2017年9月27日(水)

福音主義教会〔プロテスタント教会〕というのは、自分たちの主であるキリストがいっさいの重荷と共に自分を身に引き受けてくださったが故に、祝福に生きうるとの望みに生きる教会員たちの教会なのです。
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幾つもの階層があって、その間に階段がかかっているような世界においては、究極のところでいっしょにやさしく生きていこうなどということの根拠になるものはありません。ひそかにではあっても、やはり、さまざまな形の鞭がしなっている世界なのです。だが神の前での貧しさが信じられる世界においては、究極のところでいっしょにやさしく生きていかないという理由はないのです。

〔アルブレヒト・ゲース〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
295頁

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(第1テモテ1・15)
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2・3)

プロテスタントという言葉には否定的な響きがあるそうで、いくつもの国ではこの言葉は使わず福音主義教会という言葉を使うそうです。もとよりプロテスタント教会の生まれる引き金となった人物ルターは、プロテスタント教会を立ち上げようなどとは少しも思っていなかったでしょう。
すべてのキリスト教会は、すべての者が罪びとであって義人は一人もいないことを告白しています。そして救いはただ神さまからのみやってくることを知っています。神さまからの一方的な憐み、めぐみによって救っていただいたことを知っています。ですから同じ罪人である兄弟姉妹と共に生きていこうとします。やさしさをもって共に生きていく道を求めます。
この世界は、そして多くの宗教は「階層」を持とうとします。その中に階段がかかっていて、人間の行い(奉仕、献金、知恵、経験)などでその階段を上がることが良いこととされています。そうして人間にランクがつき、その結果やさしく生きる世界はどこかに生き、たがいの競争相手となり、またさばき合う世界となります。
キリスト教会もこの危険をいつも抱えています。人間は罪人だからです。しかし罪人だからこそ神さまのあわれみを乞うことを第一としましょう。


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