キリストの克己
2017年9月6日(水)彼は神の体に居りしかども、自ら其神と匹く在るところの事を棄て難きことと意わず、反て己を虚うし僕の貌をとりて人のごとくなれり・・・(腓立比書二章五・・・)
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キリストを得るは、此同情を得るなり・・・一度此同情を感ずれば、我も亦人に同情を有するを得、かくして主と共に克己し得るなり、此に於て克己は艱難にあらず・・・〔本多庸一〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
274頁
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 」(ピリピ2・6~8)
イエスさまの愛、十字架の愛、復活の愛を知ることが、隣人を愛することの動機であり力であり目標です。キリストの愛を知らないでは、隣人を愛することはできません。あるいは健康な愛で愛することができません。
キリストの愛を学ぶことは、キリストを愛することです。キリストを愛することは、キリストを礼拝することです。
本多庸一(ほんだ よういつ)は日本メソヂスト教会初代監督。青森県生まれでブラウン塾で学び、東奥義塾の再興、弘前教会の創設、東京英和学校長を歴任。