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預言者的信仰の欠如

預言者的信仰の欠如
2017年8月22日(火)

およそ国策決定に際して一定の態度を取れば、その後の事件の経過はその線に沿うて必然的である。併しながら出発点に於いて如何なる国策上の態度を取るかは選択の問題であって、比較考量の余地ある事柄である。抽象的に言えば、姿勢を軍事的に決定すれば爾後(じご)の行動は軍事的に規定せられる。之に反し全面的根本的に平和の態勢を取れば、国力発展の途は平和的に開けて行く。私は今日の如き形を取らずして日本が外に向って発展し得る道があったと、かねて主張し今なお確信している。志那に対しても、諸外国に対しても。一体、日本の国力発展の道は現下の方法以外にないということは、誰が言ったか。誰が如何なる根拠で言ったか。神を畏れ、神の力と知恵とを信ずる者が言ったのか。神を信じない者が言ったのか。神を信じない者の言うことに信者迄が付和雷同して、「必然だ」「必然だ」と反響することを私は頗(すこぶ)る心外に思っている。それは知恵が足りないというよりも信仰がないのだ。「自分達は客観的情勢を知らないから」と言うが、知らないということは此の場合弁明にならない。それは預言者的信仰の欠如を自白するものに等しい。客観的情勢についての知恵、少なくともその真相についての感覚は、預言者的信仰ある者には啓示せられる。国家の政策が如何なる方向に向かうべきかの問題は、根本的には、聖書の預言を読む者にはわかると思う。

今日の世界の混乱は、神を離れて己の力によって国を立て、国を広げてゆこうとする人間的努力から起こったものである、と断定してよかろうと思う。

〔矢内原忠雄〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
256頁

「神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、『ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。』と言った。すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。』と言った。 そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。』主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。 アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。『どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。』そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。エリシャは彼らに言った。『こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。』こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。 彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。『主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。』主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。『私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。』 エリシャは言った。『打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。』 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった」(第2列王記6・15~23)

信仰に生きるということは、目に見えるものだけを見るのではなく目に見えないものを見て生きるということです。神さまの軍勢が自らを取り巻いている信仰の目を持つことです。そうして圧倒的な勝利の中にあることを信じ、敵をゆるし、共に生きる道を探し求めていくことです。こうして信仰に生きる者は平和の道を築くことができるのです。

信仰に生きているといいながら、戦いの道を選択しようとすることは、結局は神さまを信じていないなこと、人間の力しか信じていないことを現しています。


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