主イエスの印
2017年8月14日(月)家族を私が死の脅威にさらされないで過ごした日は、ほとんど一日もない。
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苦難がたび重なってくろ間もなく、私は、自分の置かれている状況に応ずるのに、二つの道があることに気がついた―つまり、苛酷にやり返すが、苦難を創造的な力に転換させるかの、どちらかなのだ。私は、後の方の道を行くことに決めた。苦しむことの必然性を認識することによって、そこから徳性を産み出そうとした。苛酷になることから自分自身を救えさえすれば、と思って、私は、自分が受けた火の試練を、自己を変革し、現在ある悲惨な状況のただ中に苦しむ人々の傷を癒す機会だと考えようとした。私は、これまでの二、三年間、いわれなくこうむった試練というものが贖罪的だという確信に立って生きてきた。
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私も今や、使徒パウロのように謙って、しかし誇りをもって、「私は主イエスの印を身に帯びているのだ」ということができる。〔M・L・キング〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
248頁
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」 (第1コリント1・18)
十字架は、試練を贖罪の時と執える道に歩もうとする者にとって、とても大きな力です。「苛酷にやり返す」生き方から守られて「苦難を創造的な力に転換させる」道に歩ませる神さまの力、それが十字架です。