勇気ある男
2017年8月11日(金)

捕われ人は結局のところ誰も自由の意志を持ちはしない。誰だってナチスの制帽の前に、心から身を屈しはしない。だがシュナイダー牧師にとって、この敬礼拒否は、彼の信仰告白者としての勇気の意識的な表現であった。
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生命を維持するのにほとんど足しにもならぬ貧しい食物にもかかわらず、金曜日には、つまり主の死なれた日には、いかなる栄養も取ろうとはしなかったのである。

〔レオンハルト・シュタインヴェンダー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
245頁

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」 (ダニエル3・17,18)

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。 」(エペソ5・5)

1938年5月1日、収容所にて。ナチスの旗ハーケンクロイツが掲揚され、それに向かって「脱帽!」の号令が響く中、収容所の指揮官の向かいに立つ牧師パウル・シュナイダーは帽子を冠ったまま、ただひとりゆるぎなく立っています。「収容所の中での悪名高きひとや」の独房の中に引きずり込まれたシュナイダー牧師は13か月の間この「過酷な特別扱いの苦しみ」を耐えます。その間、毎週金曜には断食を続けたといいます。主のお苦しみをその身に経験し続けたということでしょう。主イエスさまを覚え続けること、礼拝し続けることが、収容所での過酷な苦しみの中にも、忍耐に生きる力が与えられたのかもしれません。

神以外のものを拝まないことが偶像礼拝をしないということですが、それが同時に神さまのみを礼拝するということと結びついていなければなりません。ただ何物にも屈するのがいやだ、というのはただの自己中心であって、偶像礼拝を避けているのとは違います。不品行、汚れ、むさぼりを避けること、が偶像礼拝を避けることです。ですから神以外のものを拝んでいないといっても、それが自己中心から出ているならば結局のところ偶像礼拝なのです。

ダニエル書に登場する偶像礼拝を拒否する3人の青年たちは、火の燃える炉から自分たちを救うことが出来る神さまはを信じているから王の作った金の像を拝むことをしないといったのですが、それは、もし自分たちを救うことが出来なかったらこの神さまを信じることをやめる、ということではありませんでした。「もしそうでなくても」(たとえそうでなくても)拝まない、真の神さまのみを拝み、信頼するといったのです。


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