命令形でなく未来形
2017年8月2日(水)聖書の本来の中心的な働きは、人のこころに、人を愛する力をさずけることである。これは偉大な使信である。だから愛は掟ではなくて約束、命令形ではなくて未来形なのだ―「聞けイスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。汝は汝の神なるこの主を全心、全霊、全力をあげて愛することになる」(申命記6・4,5)。
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マタイ福音書第5章48節を正しく翻訳すれば、やはり次のようになる―「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全になる(なりなさいではない)」。
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人が実行できないようなことを人に要求していないということ、どうせ絶望か偽善に終わるしかないような、おもしろくもない、できもしない道徳的戦いを命じているのでなく、人が今もっていない愛をただひと言約束しているということ、これが聖書の福音の革命的なところである。〔テーオドール・ボヴェー〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
236頁
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタイ5・48)
命令形ではなく未来形。
確かに愛することを命令するということ自体、愛ということにおいて矛盾しているように思っていました。だいたい命令されて愛したところでそれは愛ではないような気がするからです。愛は自発的になされることによってのみ愛であると思えるのです。しかし聖書はあえて愛することを命じています。それは神さまだからこそ可能となる愛だからなのではないかと思います。神さまは命じるからにはそれを実現する力をも与えてくださるお方であるということでしょう。
未来形という言葉に、この矛盾に対する一つの新しい視点があるように思いました。あるいは、意志未来的なことなのかもしれません。この場合意志は人間にあるのか、あるいは神さまにあるのか。その辺がさらに信仰の深みに入るところであると思います。