大患のあと
2017年7月31日(月)服従、またすべて主の十字架に自己の十字架に自己の過去の罪を釘づけ、自己の考慮・欲望・工夫に死に果て、しかして信頼の単純なる生活を始めたる時の心の経験こそ、富める青年(マルコ伝10)や彼の老学者ニコデモ(ヨハネ伝3)に向かってイエスが要求せられた聖旨を、いともわずかながら推しまつることができるようである。新生の歓喜、永遠なる生命、安心立命の秘密は、このへんに存するのでもあろう。これを持続し完成に至らせるためになおも主のあがないの真理を弁え、「汝の罪赦されたり」(マルコ伝2)との救いの確信に伴うて、絶えず潔められるために祈り、また死すとも同じ罪過を犯すまじとの主の聖愛に対する重き責任の心より生ずる努力を、寸時もゆるがせにすることができぬ。キリスト者は実に戦争の一生を送らねばならない。ただ平和なるは、戦いに勝ち給える主イエスの十字架のみ陰によるときのみである。
〔森明〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
231頁
「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 」(第1ペテロ2・24)
「主の聖愛に対する重き責任の心より生ずる努力を、寸時もゆるがせにすることができぬ」と信仰者の覚悟が語られています。今日のキリスト教会の問題はここにあるのかもしれません。
このような信仰の態度をキリスト抜きで貫こうとすること。逆にこの努力をせずに自動的に救いの恵みや喜びに生きることが出来ると開き直っていること。いずれもキリスト信仰に生きる者の態度ではありません。
私たちは、主を仰ぎ、礼拝をささげ、祈りながら御言葉に学び、主のご愛に答える道を選択します。