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思うようにならぬ故の感謝

思うようにならぬ故の感謝
2017年7月14日(金)

世の人はしばしば嘆じていう、世の中のことは思うようにならないものだと。しかし私は思うようにならないが故に感謝したく思う。私は私の本当の幸福、本当の歓喜が、思わざる難儀、願わざる悲しみのうちから生れ出たものであることを知っている。そして思うことの思うようになった時、かえって不満があり、倦怠があり、空虚のあったことを知っている。
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人の手をもって作られた翼を持つ飛行機は、なお不安であろう。しかし神の作りたまえる翼に安んずる鷲は、雲を呼び風を叱咤して快翔する。いわんや神のみ手にのせられたるわれら、何を恐れてためらうのであろうか。

いわゆる人生の謎がいっさい釈(と)かれて、われわれの根底よく千年万年の将来をも写し得たとしたらば、それで人の幸福が完(まった)いであろうか。私はそうは思わない。私は私の将来を一々鏡に写して指摘してほしいとは思わない。ただ神のみ手がわが上にあり、すべてのことを働きてわが益となるなりとの信頼をわがものとすれば、それで私の幸福は完いと思う。この信頼に立って跳り出たいと思う。あえて冒して人生の旅路にのぼりたいと思う。

満ちて溢るるばかりの勇気は、神人を強要したもうとの体験からのみ湧く、その期待に根ざす。釈かれたる謎の了智でなくして、むしろ不断の謎に対する信頼である。

〔三谷隆正〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
214頁

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)

明日の事を知らないという不安の中で、明日の事を知りたいという願望は、だれにでもあるのだと思います。多くの雑誌にも、ラジオのバラエティーでも、運勢占いがついていたりします。誕生日や名前、方角などなど、それらを根拠として、今日の歩み、明日の歩みを知ろうとするのです。その前提となっている考え方は、未来は定まっているということです。定まっているので予測できるのです。しかし定まっているのならばそれは変えられないということでもありますから、未来を知ったところで人間にはどうすることもできないはずです。ところが方角が悪いから別の道を歩むというふうに、変えることも前提としています。いったい未来は定まっているのか、それとも変更可能なのかどちらなのでしょう。私はここに未来を占うということにおいて、自己矛盾があるように思うのです。
信仰に生きること、宗教に生きることは、このように未来を予測して、幸福な道を選択する、そのように自分の思うように人生を設計し歩むことではありません。私は少なくともキリスト教信仰は、全くそうではない信仰である、と思っています。
「明日はどんな日か私は知らない。しかし明日を守られるイエスがともにいてくださる」のです。ここに真実な信仰、健やかな信仰に生きる道があります。自分の思うように歩むことが幸福であるとする祈りは、ただ自分の願望のままに生きようるすることであり、起こりくる困難には何の力もありません。しかしすべてが愛の神さまのみ手の中にあると信じる信仰の祈りには、神さまへの希望に満ちた力強さがあります。神さまのみ手にすべてをゆだねた平安があります。


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