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祭司としての自由

祭司としての自由
2017年7月6日(木)

我らは、あらゆるもののうちで最も自由な王であるばかりでなく、また、永遠に、祭司でもある。
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我らは、祭司職によって、神の前に現われ、他人のために祈り、相互に神のことを教える資格を有するからだ。これが祭司の職務であって、不信の者にはどんな人にでも全く許され得ないものである。
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キリスト者は、なんらわざによってではなく、ただ信仰によって、こうした光栄に達するのである。

〔ルター〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
206頁

「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。}(ローマ15・16)

「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」(黙示録5・9~10)

万人祭司といいますが、正確には全信徒祭司です。未信者は祭司ではありません。
信仰によって義とされたキリスト者は、王であるばかりは祭司でもあるのです。神さまにとりなすことが許されているのです。それが全信徒に許されているのです。ですからキリスト者は祈ります。他者のために祈ります。この世界のために祈ります。為政者たちのために、経済界で労する方々のために、さまざまな重荷を担う方々のために祈ります。私の家族のために、近隣の皆さんのために祈ります。


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