聴かれざる祈禱
2017年6月30日(金)イエスは「もし汝ら何事にてもわが名によりてねがわば、われこれをなさん」と宣べたまいしに対して、ここに聴かれざる祈禱の著しき例が三つあるのである、モーセの祈禱が聴かれず、パウロも聴かれず、イエス御自身もまた聴かれなかったのである。依って知る、祈禱の聴かれないのもまた決して悪いことではないことを、・・・然り、祈禱の聴かれないことがその真に聴かれたことである
・・・
充たされざる希望が、神に達する途である〔内村鑑三〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
198頁
「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント8,9)
祈りが聴かれないという信仰の経験によって、私たちは真実に神さまにお出会いします。自分の願望が実現するという経験しかない信仰生活は、結局のところ神さまにお出会いしているのではなく、自分しか見ていないのです。