ゆるす敵があるのか
2017年6月17日(土)仁者は敵なしというが、キリスト者は敵を、しかも不倶戴天の仇敵を絶えず持っているはずなのである。それがないならば、実は悪魔の友なのであって、十字架の兵士ではないのだ。君は激しく憎まれ、害せられようとしているはずなのだ。もちろんそれは、君の落度や愚かさの故であってはならない。純真な愛の故にかく報いられてあるべきである。どうかその境地にあるものとして、その敵を赦すことを考えてほしい。
〔中村獅雄〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
185頁
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5・44)
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6・12)
人から憎まれたことがなく、いじめられたり、いやなことをされたりといった経験がない中で、だれかを赦すという言葉は、たやすいことのように感じられるかもしれません。しかし憎まれたり、いじめられたり、いやなことをされたりといった経験を持つ者にとって、この「赦す」という言葉は、大変難しい言葉です。
自分の足りなさや愚かさによって憎まれることはやむをえないことかもしれません。しかし憎しみの原因が自分にない場合、あるいは自分は神さまの喜ばれるであろう道を選択したことによって人びとが憎しみを自分に向かって抱く場合(それは一見自分のほうに憎しみの原因があるように思えますが、そうではなく正義に反発心を抱くという相手の側に原因があるのだと思います)、赦すということは大変難しいことと思います。
そのうえで赦すということは、自分が神さまに赦されるための条件であると、あえて聖書は語っています。もちろん私たちが赦すということが条件となって、それに報いて神さまが初めて赦して下さるというのでは全くありません。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5・45) 神さまは赦しの神さまなのです。
しかしその赦し素晴らしさは、私も誰かを赦すという経験によって、はじめて知り味わうことができるのではないでしょうか。
赦すということは、自分の手の中から解き放つということです。赦さないぞ、と思って生きているときは、その相手に縛られているのです。縛られている人生に自由はありません。赦すということは自由をいただくことです。赦すことは自分のために大切なことなのです。