寛容
2017年6月16日(金)人の優れているのをねたみ、人の劣っているのを喜ぶのは俗世間の常ではないか。・・・才能があればこれを嫌いて、がらがあればこれを疑い、人の長所を聞けばその短所を挙げてこれに答え、人の善を話せばすぐにその悪をあばいてこれに対抗する。ああどうして俗世間はこのように醜いのだろう。これを救うものはただ一つの寛容あるのみだ。・・・寛容とはがまんして忍ぶことではない。また、いやいや屈服するのでもない。たとえば子供が悪いことをしてもおとながこれを問題にせず許してやるようなのを言うのだ。私はかつて宋史を読み、ひそかに妻師徳が狄に於て傑を許した雅量に敬服したのであった。その後聖書を読むようになってから、ステパノの殉教の場面を読む毎に、遙かにそれにまさるもののあることを味わい、その都度涙が頁の裏まで通るほど感涙にむせぶのである。
〔徳永規矩〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
184頁
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」(第1コリント13・4)
「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」(使徒7・59,60)
ねたみを克服すのは寛容である、ということでしょう。寛容は神さまにしっかりと結びついた人の証しであるような気がします。ねたみに駆られている人は周りにいろいろな悪臭を放ちますが、ねたみに駆られている人自身が本当は一番不幸でつらいのかもしれません。そういうことから自由にされることが信仰ではないかと思います。
ステパノの視点は天に向けられていました。創造主である神さまを信じること。十字架と復活の愛をもって包み込んでいてくださる神さまを信じること、その神さまにゆだねること、です。