首を垂れて
2017年6月15日(木)千里を遠しとせずして、訪ねうる間柄は、友情のまだ破れない保証がどこかにあるからのことである。努めて問安し、そこに、これほどまでにゆき違った、白々しいものしか見出されないとすれば、そういう目にいくたびもあったひとは、「共在」をおそれるであろう。「インマヌエル」・「神ともに在(いま)したもう」事実と真理を指しえないなら、おざなりのつきあいの方が楽である。
わたくしの説教を真面目にきいてくれた青年で、三年前、二年前と、いずれも、猛暑の頃であったが、自ら生命を断ったひとがある。それぞれの、素因や、病気の工合(ぐあい)や、書きのこしたものなどによって理由を探ろうとしても朧(おぼ)ろにしかわからない。ただ、おそらく、どんな個人的、社会的理由があろうとも、死の直前の精神状態をどれだけこまかくさぐろうとも、一つの魂の孤独の深さと、現実によってひきさかれている魂の裂け目のいたさとは、生きのびているわれわれに触れることを得しめない。われわれは首を垂れて、「主よ憐みたまえ!」、「キリストよ憐みたまえ!」と祈るほかはない。世のつねの、外面の操作を、でくのようになし得るのみであろう。ただ、もしわたくしのような醜い存在でも、いつも彼らと共に在って、キリストの臨在を指し、死神のよび声にさからうかげとなりえたのだったら、とおもう。
〔小塩力〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
183頁
「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(マタイ1・23)
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)
マタイの福音書は「神さまがいつもともにいてくださる」という言葉で始まり、またその言葉で終わります。この福音書全体の急所がここにあるといってもよいのかもしれません。
ただ小塩先生が書かれているように、ともにいるということが慰めとなり励ましとなるためには「友情のまだ破れない保証」がどこかにあるわけであって、それがないならば慰めにも、また励ましにもなり得ません。
神さまが愛であるということがこの「友情のまだ破れない保証」になるとすれば、また私たちが神さまによって造られた存在なので、私たちのうちには「神さまの像」のかけらが残っているということが「友情のまだ破れない保証」の一縷となるとすれば、神さまがともにいてくださるということは絶大な慰めと励ましとなり得ます。
私が誰かの慰めとなり励ましとなりうるために、ともにいようとするとき、そこに人間の愛しかないとすれば逆効果もまぬがれません。しかし神さまがともにいてくださるという信仰を携え持っているならば、「キリストの臨在を指し、死神のよび声にさからうかげ」とならせていただく可能性があるのでしょう。