多く愛する
2017年6月12日(月)彼女は泣きます(ルカ7・38)。そして泣いているうちに、彼女は自分自身を忘れます。・・・こうしてまったく自分自身を忘れるということ、これこそ、多くを愛するということの真の表現にほかならないのであります。
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物事に熱中しきっている瞬間に、自分にとってこの上なく貴重である瞬間に、自分自身を忘れて他の人のことを思う者、その人は多く愛する人であります。
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自分自身の心の中のすべてのものや、自分の周囲のすべてのものが、ただ自分自身のことを思わせるというばかりでなく、いやでも自分自身のことを考えさせずにはおかないといったような瞬間に、自分自身を忘れる人も―それだのにその人が自分自身を忘れるなら、その人も、彼女がそうしたように、多く愛する人であります。〔キールケゴール〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
180頁
「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。」(ルカ7・47~48)
自分を忘れるところに多く愛する道が開かれるということは、自分に固執するところには多く愛する道が開かれないということです。
キェルケゴール(この書ではキールケゴールですが、多くはキルケゴールと表記されることが多いのかもしれません。ここでは藤木正三先生の翻訳にならってキェルケゴールとしておきます)は、隣人を愛することが語られているようですが、聖書の文脈では、神さまを愛することについて語られているように思います。
人間を愛するというところでは、その隣人から愛されるということが想定されますから、そこでこそ自分を忘れるということの大切な意味があると思います。しかし神さまを愛するということは、神さまから愛されるということ以上に、神さまから罪をゆるしていただくということが、大きなテーマとしてあるように思います。ですから隣人との関係の中では自分を忘れることが前提ですが、神さまとの関係の中では自分を忘れるどころか、むしろ自分が罪赦された者であるということの喜びを確かにしなければなりません。このルカ7章に登場する罪深い女は、罪のゆるしにおいてイエスさまをより多く愛するという道に歩んでいるように思います。
ただそこでさらに思うことは、イエスさまが「あなたの罪は赦された」と語っておられるのは、彼女の香油を注ぐという行為のあとであるということです。彼女は罪赦されたという言葉を聞いたので、より多く愛そうと香油を注いだのではなく、まだその言葉が聞こえないときに、すでに多く愛する道に踏み出しているということでしょう。これは多く愛したのでその見返りに神さまからの赦しの言葉をいただいたというのでは全くありません。また逆に罪の赦しの言葉を実際にいただいたので、そのお礼に香油を注いだというのでもありません。そこにあるのは、彼女のイエスさまへの「信頼」ではないかと思います。このお方ならば罪深く世間から後ろ指をさされている私を受け入れてくださるに違いないという信頼をもっていた、あるいは神さまからいただいたということなのだと思うのです。
そのような「神さまへの信頼」それを聖書は信仰というのだと思います。神さまへの我を忘れるほどの、それは罪人であることを忘れるということではなく、罪びとであることは誰よりも痛いほど知っているのですが、そのうえで無限の愛を傾けていてくださる神さまにゆだねていこうとすること。それほどに自分を後回しにしていこうとするところに、多く愛する道が開かれるのではないかと思うのです。