愛の実相
2017年5月21日(日)愛は、たんなる自然的な慈悲心ではない
・・・
にせものは、はじめに出てきて、やがてうすれてゆく。まことの愛は、人びとの態度とともに去来するものではない。それは、たやすくそこなわれはしない。それは、人びとの評価とはちがった源泉から―軽視されたキリストの十字架において、やしなわれる。そこでは、愛は、誤解と無理解にさらされつつ、それでもなお進んでゆく心がまえをもっている。人間がかれら自身のゆえに愛すべきものであることをやめたときに、愛は、キリストにおいて湧きだす新しい人間性を、心情をその永遠の泉において甘美なものとしている新しい人間性を、見いだすものなのである。〔P・T・フォーサイス〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
155頁
神さまは人間に「愛する心」を与えてくださいました。自然を愛し、自分を愛し、隣人を愛する愛を与えてくださいました。そして何よりも神さまを愛する愛を与えてくださいました。
しかしその愛は創世記3章の出来事以来壊れてしまいました。完全に失ってしまったのか、それとも、完全に壊れてしまったのか。あるいは少しは残っているのか。いずれにも真理があるように思いますが、とにかく最初の愛ではなくなってしまったということです。
キリストの十字架において神さまが罪びとである人間を愛していてくださることが明らかにされました。そしてその十字架においてこそ完全な愛が示されました。愛とはいったいなんであるのかが明らかにされたのです。
その愛とは「たんなる自然的な慈悲心」ではありません。「誤解と無理解にさらされつつ、それでもなお進んでゆく心がまえ」をもっています。