,

十字架にある平安

十字架にある平安
2017年5月14日(日)

世より離れて神のものとなれる生涯は気楽なものではない。・・・されど我らはその十字架を避けることによらず、進んでそれを負うことによって平安を得るのである。・・・この平安を得ないのは十字架を避けるからである。
・・・
我らが無理を言われた時、これをばからしく思って、おのが権利をじゅりんせられたことを憤り、これを主張したからとて、それによって平安を得られるものであろうか。否々、かえって今まで持っていた平安さえも失うにいたるであろう。無理を言われてもそれに服従し、権利をじゅうりんせられてもただ黙して従う。これすなわち柔和である。またこの謙遜とは格別人の前にへりくだることである。されば十字架は重くて、とても身も心もこれに堪えられないほどに負いがたきものであろうか。否々、キリストはかかる十字架を負わせたまわない。我らが進んで十字架を負う時に、人の知らざる平安を得るのである。

〔笹尾鉄三郎〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
148頁

十字架を下ろすことと、十字架を担うこと。キリストと共に十字架を担うこと。柔和に、謙遜に。そこに世の与えるものではない、まことの平安があります。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: