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罪をゆるしうる者

罪をゆるしうる者
2017年5月8日(月)

われわれが権威をもって罪のゆるしを告げうる第一の前提は、十字架につけられ甦られた方が、われら罪人の中に来たるということ、みずからここにいますということ
・・・
第二にイエスは、二度までも「平安があなたがたにあるように」と言われる。おかしな平安である! 戦いへ、迫害と死へ行くことなのである。・・・「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす」。父はイエスをつかわし、天の平安を捨て、故郷を失い、自ら死する生活にはいられた。この同じ道へ弟子たちを送ることこそ、イエスの与える平安なのである。・・・和解はただ償いによってのみ、苦難によってのみ起こる。今キリストによって遣わされる者は、他者のために苦しむ。十字架につけられし方のあとに従い、罪のために苦しむこと、それが権威をもってゆるしうることの前提である。イエスによってその全権を委ねられる者は、罪をゆるし、またとどめる力を持ち、イエスと共に苦難への道をあゆむのである。イエスと共に罪に苦しむ教会だけが、罪に勝つ力を持つのである。

〔ルードルフ・ボーレン〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
142頁

マタイ11章28節以降には、平安は重荷を下ろすことと重荷を担うことの二つによって与えられるとイエスさまは言われました。この真理はまさに聖書が明らかにする真理であり、人生の真実であると思います。
イエスさまがともにいてくださるという信仰によって与えられる平安は、ほんとうに豊かな平安なのですが、それだけでは不十分な平安なのです。父なる神さまがイエスさまを遣わされたように、私たちも遣わされるとき、真の平安に生きるようになるのです。あるいはイエスさまがともにいてくださるという信仰は、この罪の世界に遣わされるという方向を持っているということかもしれません。
イエスさまがともにいてくださるという信仰に生きているといっても、遣わされるということがないならば、そこには真の平安は生まれません。
父なる神さまがイエスさまをこの世に遣わされたように、今日も私たちはこの世界に遣わされて行きます。


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