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聖霊の叫び

聖霊の叫び
2017年5月6日(土)

われわれの徹底的な罪、「お前は罪人だ」と言う悪魔の告発、永遠の刑罰をもってのぞむ神の怒りに面して、そして完全な無力と絶望の中で発せられる「アバ、父よ」という叫び声を、彼は「聖霊の叫び」と呼ぶのに躊躇しなかった。この呼びかけが発せられる場合、雲を貫き、天と地とを満たす。その声があまりに大きいので、天使がそれを耳にする時、今まで音というものを聞いたことがなかったように思い、神御自身も、全世界に、この響きのほかに響きというものを聞きたまわないほどである。しかもこの叫び声は、われわれの耳に達するかぎり、取るにたりない、哀れな嘆息のようなものにすぎない。われわれ自身はその中に決して聖霊の叫び声を聞くことはできない。
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だからこの経験だけに頼るならば、われわれは滅びるだけであろう。しかしこういうふうにして―このことを聖霊体験主義者は知らないが―キリストはわれわれのうちに全能であり、われわれを支配し、われわれの罪に打ち勝ち給いつつあるのである。目に見える経験的な基礎なく、むしろ直接的な経験にさからって、キリストにおける神の確かな約束に依り頼みつつ発せられるこの「アバ、父よ」を、ルターは「聖霊の叫び」と称し、そしてこの声は、神の前にはキケロやヴィルギリウスよりも雄弁だと考えたのであった。これが聖霊の導きを信じていたものの言葉である。

〔福田正俊〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
140頁

「聖霊体験主義者は知らない」。私のうちにも、また教会にも聖霊体験主義的なところがあります。この聖霊体験ということを基礎にしてしまうと、とたんに救いがわからなくなり、キリスト教がわからなくなり、聖書の理解がとんでもない方向に向かってしまいます。ですから聖霊体験はせいぜいカレーライスでいうと福神漬けの立場から逸脱させないということが大切になってきます。
そんな体験にかかわりなく、むしろそういう体験に逆らって、ただキリストの約束のみに依り頼むこと。これがキリスト教信仰でしょう。そうすると確かなキリスト教信仰に生きるためには、むしろ聖霊体験は邪魔になって仕方がないということとなります。
聖霊体験が強調されると、この「聖霊の叫び」から遠く離れてしまいます。


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