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聖霊に満たされて

聖霊に満たされて
2017年5月2日(火)

<聖霊に満たされて>いると言われる人々は、突如として神の大いなるみわざを発見します。
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彼らの視線は、いわば自己の内面的な新しい状況を楽しむために、自分たち自身に向けられるのではなく、それはまさに外に向かいます。霊は、彼らの中に起ることではなく、彼らに対して起こることに注目させるのであります。
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ところで私たちはもちろん、何人かの弁証法神学者たちがそうであったように、「だから〔信仰においては〕何ごとも私の中には起こらないのだ。だから、<体験>とか<敬虔なる畏怖>とか聖なる感情といった言葉は、経験主義者たちがおちいった邪道にすぎない」と言って、風呂の水といっしょに赤ん坊まで流してしまうような誤りを犯すべきではありません。そのような結論は、聖霊の内在を強調するのと同様、一方に偏っています。当然のことながら、〔霊的〕体験の余地は十分にあるのです。私たちの体験に働きかけ、私たちの神経になんら触れることなしに、いったいどうして、神の歴史が私たちをとらえたり、私たちに迫ってきたりすることがあり得ましょう。・・・しかし一方、私たちは、霊的体験という出来事の本来的重心がどこに存するかを、決して見逃してはならず、また、体験とは、私に対して起こること―つまり神の歴史として外側から私に出会うこと―の副産物に過ぎないのだということを、決して忘れてはならないのです。

〔ヘルムート・ティーリケ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
136頁

信仰が「私の中に起ること」すなわち「霊的体験」と「私に対して起こること」とのバランスが大切であるということでしょう。霊的体験はあくまで副産物であるということを忘れてはならないのです。
霊的体験をことさらに強調し、それをあやつって人集めをする宗教が、この世には多数存在しています。驚くべきことはキリスト教においてもそれが存在しているという事実です。嘆かわしいことです。
イエスさまが私のために十字架にかかり復活してくださったという歴史的事実に私たちは目を開かれます。その神さまがなしてくださった大いなる御業に心開かれる喜びを大切にしましょう。


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