イエスと焼き魚
2017年4月22日(土)受洗して一年もたって、ある日、ルカ伝の復活のくだりを読んでいたとき、突然ショックとともに、必然性の壁が音を立ててくずれ落ちて行くのを見たのである。つまりほんとうの自由を見たのだ。
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それまでの世の中がちがった光で見え、私の生き方を変えてしまったのだ。・・・私は、生きているイエスを見ていたからだ。しかしそのイエスは、絶対に死んでいるはずのイエスである。・・・しかも弟子のだれも、そのイエスを信じることはできない。むろん私もだ。だが、イエスは自分を信じない者のためにどんな奇跡をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼魚の一きれをムシャムシャ食って見せられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。同時に死んで生きているイエスの二重性は、私が絶対と考えていたこの世のあらゆる必然性を一瞬のうちに打ちくだいてしまったのである。〔椎名麟三〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
124頁
イエスさまは私たちにご自身をあらわすために身近なものを用いられます。復活の主は焼き魚の一切れを食されるのです。
食す、という日常的な行為が復活の主の証しであったように、聖餐式のおけるパンとぶどう汁は私たちに復活の主の現臨を告げます。十字架上で死なれた主は今日も私たちとともに生きておられます。