ヨハネの福音書20章7節について
イースター、おめでとうございます。イースターメッセージを準備していた中で心に留まったことをあらためて書き留めておきたいと思いました。今年はヨハネの福音書20章1~18節からみ言葉のお分ちをしますが、その中でメッセージの本題ではなかったのですが7節の言葉が心に留まりました。
私たちの教会では日本聖書刊行会が発行している新改訳聖書を使用しています。これによりますと、ヨハネの福音書20章7節は以下のようになっています。
「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。」(新改訳)
私はこの「巻かれたまま」というのをイエスさまの頭に巻かれたままの形と理解していました。イエスさまは甦られた際、するりと抜けられたので、頭に巻かれた布切れがそのままの形で置かれていたと理解していたのです。
ところが他の訳を比較してみますと別の印象が生まれます。以下にいくつかの訳を書き出します。
「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」(新共同訳)
「イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。」(口語訳)
「イエズスの頭にあった手拭いが、亜麻布と一緒に平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた。」(フランシスコ会訳)
「イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒に平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた。」(フランシスコ会訳・2011年版)
「また首(こうべ)を包みし手拭いは布とともに在らず、他のところに巻きてあるのを見る。」(文語訳)
「また、御頭をつつんだ手拭とを見た。手拭は布といっしょになくて、ほかのところに巻いておいてあった。」(バルバロ訳)
ここで生まれる別の印象は、イエスさまの頭に巻かれていた布は、イエスさまが復活された際、それをきちんとたたんで体を巻いていた亜麻布とは別に置いてあった、ということです。
私は靴下を脱ぐとき、片方の足でもう片方の足の先を踏んで足を靴下から抜き、もう片方も同じようにして靴下を脱ぐことがありますが、そうするとはいていた形を残した靴下がそこに置かれます。それに対してきちんと手を使って靴下を脱いでたたんでおくことも時々ですがします。イエスさまの頭に巻かれていた布切れは、この私の靴下の脱ぎ方に当てはめるとすれば、新改訳聖書では前者、他の訳では後者を表しているように思うのです。
今年2017年、新しい翻訳が出版されるようですが、翻訳の難しさを想像します。この新改訳聖書はできるだけ直訳を目指しているのだと思いますが、直訳だけでは伝わらない部分があるように思います。聖書は教会の伝統の中で書かれたのですから、教会の伝統や教理が正しく伝わるための翻訳を期待しています。