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わたしのもとに来たれ

わたしのもとに来たれ
2017年2月20日(月)

わたしのもとに留まれ、わたしは休みである。あるいは、わたしのもとに留まることが休みである。
・・・
かれが病人を扱われるしかたは、それぞれの個人に完全に適応した治療法であり、かれが手をくだされる病人のひとりひとりが、かれのただひとりの患者であるかのようである。

〔キールケゴール〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
56頁

99匹を野原に残しておいて1匹を探し求める良い羊飼い。99匹のことを考えると素直に理解できることではないのです。しかしそこにこそ真理があります。
イエスさまのもとに行き、留まることを除いてはどこにも安息はありません。イエスさまのところに行けば、そして留まればそこに安息があります。イエスさま御自身が安息そのものです。それは「ただひとりの患者」であるかのようにしていただけるからです。
これは神さまだけがお持ちの愛です。人間はこの愛を神さま以外に求めようとします。それが偶像礼拝です。偶像礼拝の内にある時は平安はありません。かえって罪が罪を生み出し平安どころか問題が大きくなるばかりです。
信仰者はこの平安を神さま以外に求めてはなりません。また求めようとする人々に神さまに代わって与えようとしてはいけません。牧師は神さまになるのではなく、神さまのところに人々を導くことがその使命です。いかに偶像礼拝の権化になってしまっている牧師の多いことか。嘆かわしいことです。もしこんな状況が続くとすればプロテスタントに将来はありません。


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