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きわめて単純なこと

きわめて単純なこと
2017年1月10日(火)

神は私たちに恵み深くあり給う、私たちはそれに値しない。神は私たちを引き受け、私たちの救い主であり給う。このことは真実であり、美しく明確であり、すべての人にとって心服すべきことである。そのことについてあなたは、自分の隣人に対して証人となるべきである。否、そうなることを許されている。あなたは、したがって自分の限界、制限、小ささ、また他人の限界や愚かさについて、くよくよ思う必要はない。
・・・
私は、この業の頂点にいる指導的な技師として、自分を置く必要はない。そこでは、私は小さな助手、補助者として奉仕すればよい。私がそれを造るのではない。彼がそれを造り給う。

〔カール・バルト〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
12頁

私の立派な言動がいわゆる「良い証し」となり説教への力になるのでしょうか。もしそういうことであればいったい誰が証し人となることができるでしょうか。もし仮にいわゆる「良い証し」によって宣教が進んだとしても、そこでは神さまの素晴らしさよりも、人の素晴らしさが語られているに過ぎないのではないでしょうか。

私たちは神さまが恵み深いお方であることを信じています。ですから自分がどうであれ、他人がどうであれ、神さまはご真実なお方であり、私たちの救い主であることを証しします。そうすることが許されています。


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