最も人間的で最も神的な仕種
2016年10月2日(日)エマオへの途上でイエスが一緒に歩かれた二人の弟子たちは、イエスがパンを割かれた時イエスであることが分かりました。パンを割くということ以上に、一般的で日常的な仕種が何かあるでしょうか。それは、あらゆる人間の仕種の中で、最も人間的なものでしょう。
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神が一番身近に感じられる時は、私たちが最も人間らしい時といえましょう。ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
332頁。
日常的で人間的な仕種によって、私たちはイエスさまが共にいてくださる、共に歩んでいてくださるということを知らされます。
おおよそ宗教において神を知るということは、むしろ特別な仕種、特別な体験によると語られているのではないでしょうか。聖書の語る神体験は全く逆です。
礼拝が特別な仕種、特別な体験であれば、そこで知る神はキリスト教の神ではないのかもしれません。礼拝そのものが私たちの日常となるところで、真実の神との出会いがあるのでしょう。
日常といっても、それが惰性とマンネリ化であれば神との出会いの場所とはならないでしょう。日常でありつつ、同時に一回限りの緊張に満ちた時、所こそ礼拝です。まさに神秘です。