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死んだ人々との交わり

死んだ人々との交わり
2016年8月29日(月)

年をとるにつれ、私たちより先に亡くなった人々を思い起こす回数が段々増えてゆきます。私たちを愛してくれた人々、また私たちが愛した人々を思い起こすことはとても大切です。こうした人々を思い起こすことで、彼らの霊が日常生活における私たちを励ましてくれることになります。先に亡くなった人々は、私たちの霊的なコミュニティーに加わり、人生の旅路で何かを決断するごとに、私たちをやさしく助けてくれます。両親、配偶者、子どもたち、友人、これらの人々はみな亡くなった後、真の霊的な同伴者となり得るのです。時として、生前見える姿で私たちと共にいた時よりも、死後さらに私たちに近い存在となることさえあるのです。

亡くなった人々を思い起こすことは、亡くなった人々との今も変わることのない交わりを望んでいることです。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
293頁。

キリスト教会は偶像礼拝を聖書により固く禁じられています。
偶像礼拝とは何かといいますと、特にプロテスタント教会の一部では、他宗教の像を拝むことであったり、仏壇を拝むことであったりということが、偶像礼拝であると教えられています。ですからカトリック教会のさまざまな像や東方教会のイコンをも偶像として、それを礼拝することは偶像礼拝であるとします。
確かに像やイコンが偶像となることがありますが、しかしそれは神さまにこころを向けるための窓のようなものであって、それ自体を礼拝しているわけではありませんので、像やイコンに向かう姿を偶像礼拝と決めつけることはいかがなものかと思います。

聖書によると、特に十戒での偶像礼拝の禁止(出エジプト20章4節)には、「造る」ということがまず禁じられています。そしてその「造ったもの」を拝むことを禁止しています。造るということは、自分の好みの神を造るということであって、それが偶像であるということです。そうするとイエスさま、イエスさまといいながらも、そこに自分の好みの神像を造り出し、礼拝しているならば、それは聖書の語る偶像礼拝である、と言わざるを得ません。

さて日本人特有の祖先崇拝についてですが、これもプロテスタント教会の一部では偶像礼拝としています。しかしそれが自分の祖先を大切にするということであるならば、父母を敬えという十戒の言葉(出エジプト20章12節)を考えると、決して偶像礼拝であると言い切ることはできないような気がします。
お墓や仏壇の前に行って、愛する故人を偲ぶこと、時に語りかけ、思い巡らすことは、大切なことではないかと思うのです。もちろんお墓や仏壇を神さまにしてしまうならば、それは偶像礼拝のそしりは免れないでしょう。
故人を偲ぶことの意味が日本人特有の祖先崇拝であり霊的特徴であるならば、偶像礼拝ではない方法でそのような民族的霊性を大切に生きる道を模索すべきではないかという気がします。


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