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精神と心を集中させる

精神と心を集中させる
2016年8月17日(水)

人々や出来事によって気を紛らわせたいという抑えがたい衝動が湧き起る時、どうすれば孤独に留まることが出来るでしょうか。最も簡単な方法は、神を思い起こさせてくれる短い言葉や、一つの絵に、私たちの精神と心を集中させることです。「主はわたしの羊飼い、私は乏しいことがない」と静かに繰り返したり、イエスのイコンを愛情を込めて見つめたりすることで、私たちの落ちつかない精神は安らぎ、穏やかな神の現存を経験するに到るでしょう。

これはにわかに出来ることではありません。それには、たゆまぬ訓練を要します。けれども、毎日ほんのわずかな時間を神と共にいることに費やすなら、絶え間なく私たちの気を散らすものは徐々に姿を消していくことでしょう。

ヘンリ J.M.ナウエン、『今日のパン、明日の糧―Bread for the Journey』
監修者・嶋本操、訳者・河田正雄、
聖公会出版、2001年11月22日第1刷発行、2015年1月17日改訂版第4刷発行、
281頁。

「人々や出来事によって気を紛らわせたい」という抑えがたい衝動。私を積極的な意味での孤独から遠ざけ、また神さまから遠ざけてしまう「人々」や「出来事」。遠ざかろうとするのはこの「私」なのですが、それを手助けする「人々」や「出来事」。神さまから遠ざけてしまうのですから、これこそ偶像ということが出来るでしょう。

この偶像礼拝を避け、神さまにとどまり続けるために、聖書の言葉に親しむこと。聖書の言葉に親しむことによって、神さまにとどまり続けること。そこに平安が生まれます。

イエスさまのイコン。イコンとは「icon」。PCのアイコンの語源となった言葉です。これ自体に実体はありません。目的のところに行くための通り道のようなものです。プロテスタントはこのイコンや「像」を偶像として避けますが、そこでの偶像についての理解は、すこし聖書のそれとは離れてしまっていると言わざるを得ません。神さまから遠ざけ「人々」や「出来事」に心を向けさせてしまうものが「偶像」なのであって、このイコンや像は神さまにこころ向けるためのものですから、偶像とは言えません。プロテスタントは、イコンや像を偶像として避けようとすることで、かえって「人々」や「出来事」によって気を紛らわせたいという抑えがたい衝動に振り回されているように思います。教会での数々のイベント、有名な先生を講師に招いての集い、などなど。ますます落ち着かない精神となり、さらなる偶像を求めてしまいます。

しずかにみ言葉を思いめぐらし、十字架の前でひざまずくこと。それだけが信仰生活を真に豊かにするものでしょう。


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