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神の御手にある年

〔年の終り〕

2015年12月31日(木)

神の御手は神の行為、神の業、神の言(ことば)であり、それらは私たちをことごとく、それを知ろうと知るまいと、あらゆる側から囲み、抱き、運び、保持してくださるのです。
しかしさらに、「御手」―それは「私たちの救い主イエス・キリストの御手」であります。それは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとへ来なさい、休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とイエス・キリストが呼びかけてくださった時、広くお拡げになった御手であります。それは子どもたちを祝福なさったキリストの両の御手。それは病人に触れて癒された御手。それはついにはとりわけ私たちのために、私たちの神との和解のために十字架に釘付けされたあの方の御手であります。それは神の御手であります。強い父の手、良き柔らかな愛情のこもった母の手、忠実な助け手たる友人の手、慈しみ深い神の御手であり、その御手の中に私たちの時があり、御手の中に私たち自身は立っています。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、700ff。

私たちは神さまの御手の中にあります。
だれもそこから私たちを奪い去ることはできません。
神さまの御手は、父の手であり、母の手であり、友人の手です。
その御手の中に私たちの時があり、私たち自身が立っています。
過去も、現在も、将来も。

(祈り)
神さま、あなたの御手の中にあることを感謝します。来る年もあなたの用意してくださった恵みの道を歩ませてください。


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