〔クリスマスの奇跡〕
2015年12月27日(日)
最終的にそれゆえまた個人的に語りかける神であることが本当に神の思し召しであるなら、私たちは私たちの自由の最も内なる根底において脅かされています。
・・・
今や神は私たちのために神になられました、キリストが来られたことで、私たち自らを抑え自らを助けようとする愚にもつかない自由を、私たちからお取り上げになったからです。
・・・
救い主は私たちを怒らせようとしてお生まれになったのではなく、むしろ私たちとすべての民に大きな喜びを与えようとしてお生まれになったからです。この意味で本当に驚くことこそが、ひょっとすると私たちすべてにやはり当然だと思われないでしょうか。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、682ff。
不思議に思う心には、否定的な心と積極的な心があるように思います。
否定的に不思議に思う心は、相変わらず自分を神として生きる生き方ですが、積極的に不思議に思う心は、自分を神とする生き方から解放され、布にくるまれ飼い葉桶に寝ておられる乳飲み子に神さまのしるしを発見する生き方です。
私たちは自らを自らの手で助けようとする愚にもつかない自由にしがみついています。神さまはその愚にもつかない自由から私たちを解放してくださいました。
信仰者は、それをいつも驚き、喜び、感謝する者です。
(祈り)
神さま、あなたの不思議な御業に感謝します。