〔待降節―主の先駆者〕
2015年12月2日(水)
ヨハネは偉大な人と呼ばれるでしょうが、彼の特性、彼の能力のためではなく、神の御前で偉大であるからです。ヨハネは誇るものは何もなく、要求するものは何も持たず、彼の偉大さは、全くのところ生徒に宿題を、運搬人にその荷物を、僕(しもべ)に命令を課すように、彼に課されたものの中にあります。
この「地位」がヨハネを偉大にします。
・・・
神がおられるところ、そこで関係は逆になり、そこでは人間の存在はその場にいることになり、神の偉大な行為の際に感謝してお手伝いすることになります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、645ff。
この世のさまざまな価値基準においてバプテスマのヨハネは偉大であったわけではありません。ただ神さまの前に偉大な人でした。
神さまの前に偉大さ。神さまの前こそ人間の真の偉大さをはかる所です。
私たちは自分の価値基準を、どこではかっているでしょうか。
人びとの前、この世の価値基準の前ではかっていはいないでしょうか。
人間の偉大さは、神さまの前にあってこそ真に明らかになります。
ヨハネは、ただひたすら神さまを指し示すためにこの地上に存在しました。
それが彼の偉大さです。
神さまの偉大な行為が行われる時々に、そのお手伝いをする、感謝してお手伝いをすること。それが偉大な者の使命です。
(祈り)
神さま、あなたの前に歩ませてください。