〔死者の復活 ― 第1コリント15章〕
2015年11月17日(火)
ここで銘記すべきは、復活への関係において何も証明されておらず、何も証明されないことです。
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どこに植物の以前の体はあり、どこにその後の種子の体はあるのか。答えは、中央にあります。以前と以後の間のまったく明白ではない危機的な点に、創造はあります。より正確に言うと、新しい創造です。以前には新しい体が「まだ無い」ように、今や古い体は「もはや」存在しません。私たちは当然ながら古いものと新しいものの、過ぎ去ったものと生成したものの同一性を肯定します。継続していく消失と生成のこの類似は、その中央で新しい創造が生じますが、自然界全体を通じて生じています。至るところにこの中央の謎があり、そこからのみ消滅と生成はその相違とその一致において理解されなければならず、それ自身、過去と未来の間の現在のように、理解されがたいのです。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、613f。
植物の種子が「死に」(消滅)、植物として「新しく生まれる」(生成)という自然界の営みにおいて、種子と植物が全く違う形であるにもかかわらずそれらの「同一性を肯定」を私たちはしています。その「中央の謎」が鍵ですが、それはどこまでも「謎」です。証明されることではなく、ここでも大切なことは「信じる」ことでしょう。
「からだのよみがえりを信ず」(使徒信条)です。
(祈り)
神さま、かだらのよみがえりを信じます。