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神は死の主人

〔終わりつつある時〕

2015年11月7日(土)

私たちが終わりになるところの前方に、いずれにしても死だけではなく、「神」も私たちを待っておられます。本来本当は、あの敵ではなく、神がそこで恐れられなければなりません。死の中には死自身ではなく、神が死の中におられます。従って神を相手にすることになるのです、私たちに対し腹を立て、私たちを死に罰せられる神と、だがまた死だけではなく神と!
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神と死は、同じ身分の、等価値の、同等に力のある二人の相手ではありません。
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神が死を投入された、だが神を私を除くこともおできになる。神が死を武装させた、だが神は死を武装解除させることもおできになる。神が死に力を与えた、神はそれを死から再びそれを私から再び奪うこともおできになる。
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主は死の主としてもおられるのです。
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私たちは他の、見知らぬものの手にではなく、神の御手に落ちるでしょう。
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死はその方に拘束されていますが、その方は死に拘束されてはいません。
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私たちは死の只中で死から守られており、死の只中で浄福であるでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、595f。

私たちはみな人生の最期に死を迎えます。人生の最期といっても、人生がいつ終わるか正確には分からないのですから、結果として人生の最期にあるだけです。もしかすると今日人生が終わるかもしれません。そうすると今日死を迎えることになるのです。

必ず死ぬことと、それがいつか分からないこと。それが人生であればいったい何のために生きているのか、とも思えてきます。

聖書は、人生の終わりに死を迎えるけれども、そこには神さまもともに迎えてくださると語ります。神さまは死と並んでいるのではなく、死の主としてそこにいてくださいます。キリストは死をも従えてくださったまことの神さまです。

ただこの神さまと向き合う備えができているかどうか、が大切なことでしょう。
死を迎える備えは、神さまを迎える備えなのです。神さまの前に出る準備ができているかどうか。

その備えは、ただ十字架と復活による贖いの御業を成し遂げてくださったキリストへの信仰のみによるのです。

(祈り)
神さま、死に備えさせてください。そのためにあなたにお出会いする備えを成させてください。


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