〔終わりつつある時〕
2015年11月4日(水)
生命は常に新たにあの向こう側を、時間の中の存在として常に新たに未来を熱望せざるをえない
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私たちはその時、まだ現在を(そして背後に過去全体を)持っていますが、今やまさにもう「未来を」持たないだろうという仕方でしか、時間を持たないからでしょう。
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私たちの発展と移行はその時私たちの沈没でしょう。
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命は死の影に「覆われて」おり、それゆえに、時間の中の存在である私たちの存在の、私たちの非存在との関係についての問いが生じます。時間の中の私たちの「非存在」は私たちの「無」ではないか、あるいはどういう意味で私たちの非存在はそれとは別なものを意味するだろうか、という疑問です。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、590ff。
私たちの人生の最後に死があるのではありません。もし死がいつであるのかが分かっているならばそういうことも可能でしょう。しかしいつ死ぬか分からないのです。今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。10年後かもしれないし、30年後かもしれないのです。ですから今日生きているその「生命」はつねに、死の影に覆われている、あるいは私たちは常に死を背負って生きている、のです。
どんなに発展をしても最後には死がある、しかもそれがいつであるのか分からない、のですから、私たちは常に一つの問いかけの前に生きています。その疑問とは「私たちは結局は無ではないか」という問いかけです。
(祈り)
神さま、自らの存在、命、時間を、あなたとの結びつきの中で、生きることができますように。