〔私たちの死〕
2015年11月2日(月)
私たちが死ななければならないという正しい熟考の本質は、イエスが私たちのためにしんでくださったことを熟考することにある
・・・
イエスの死とは何だったのか。何が起こったのか、何がそこで成就されたか。単なる自然の必然性か、事故か、偶然のことか。いいえ、イエスの死は「審判」でした。
・・・
古き人の死を死ぬことを、イエスはご自分に引き受けられまちた。
・・・
知恵ある、賢明な心は、いつの日か死ななければならない時、ひたすら神の恵みだけを頼りにするようになり、およそいつの日かというなら今すでに神の恵みによってのみ生きることができる、ということを弁える人間の心であります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、585f。
十字架が私の為であったことを信じて生きる者は、神さまの恵みによってのみ生きることができる、ということをわきまえる人間です。
神さまの恵みによってのみ生きるということがわきまえられていないならば、それはきりすとの十字架が私の為であったということを信じていないということです。
(祈り)
神さま、あなたの十字架のみわざを感謝します。