〔教会は聖霊の共同体〕
2015年10月17日(土)
教会があるところでは、教会に「神の国という目標」があります。
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真に神の国を待ち望むなら、その時は私たちも教会に対してその貧弱さの中でも持ちこたえることができます。
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・・・「節度ある希望」です。その希望は人に自制を求めます。君は今そこで辛抱していい。神の国が来る、だから君は神の国へ空路で旅立つ必要はない! 君の場所に立ち、君の場所で神聖な言(ことば)の忠実な奉仕者であれ! 君には革命的でありうるが、保守的でもありうるのだ。革命的なものと保守的なもののこのコントラストが人の中で一致するところ、全く不安であると同時にまた全く落ち着いていてよいところ、他の人びとと共に、構成員が憧憬と謙虚さのうちに神聖なユーモアの光を受けて互いを再認識し合える共同体の中に居てよいところ、このようなところでは、人は自分が果たさなければならないことをはたすでしょう。
カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、553f。
神の国という希望、そして節度ある希望。これが信仰者の希望です。そして教会の目標です。
希望は時に節度を失うのかもしれませんが、節度を失った希望は、もはや信仰による希望ではありません。迷信による希望となり果てます。破滅への希望です。
しかし真の希望は、節度ある希望です。
(祈り)
神さま、節度ある真の希望に生きる者にならせてください。