ジェフリー・S、サイカー編、『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』

結論として私は次のように論じたい。聖書は、ゲイ・レズビアンの人々をキリスト者の交わりに迎え入れることについて明確な指針を与えてくれないが、神の霊を受けてキリスト者の告白共同体に入るのがどのような人であるかについては、驚くほど明快な指針を与えてくれる。パウロはガラテヤの人々に、自分たちの経験したことを振り返ってみるように訴えている。

ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たち・・・。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を守ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。・・・あなたがたに”霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。(ガラテヤ3・1~5)

パウロは、みずからの霊の体験を振り返るように、彼らに(私たちにも)訴えかけている。彼らが霊を見分けたのは、教えの正統性や行いの正統性からか。「良い異邦人」とは「ユダヤ教的な異邦人」のことだ、と言い張る争論好きの人々が考える正統的な行いからか。それとも、信仰によってか。 ― 同じように、私たちにも問わねばならない。私たちの経験に反して、同性愛キリスト者は「異性愛的な同性愛者」になった時だけ神の霊を受けたキリスト者となる、と言い張るべきか。それとも私たちは、ペトロやパウロと共に、驚きと謙(へりくだ)りの心をもちつつ、自分の考えを改めるように迫られているのか。ゲイ・レズビアンのキリスト者は、あるがままに、罪人としてではなく、信仰によって霊を受けていることを認めるよう求めている。もし彼らがそのように霊を受けているならば、私たちはキリストにある新たな兄弟姉妹を迎え入れ、神の召されるままに共に課題を担うことへと歩を進めようではないか。

ジェフリー・S、サイカー、「第13章 同性愛キリスト者・聖書・異邦人の受容 ― 悔い改めた異性愛者の告白」より

ジェフリー・S、サイカー編、『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』、日本キリスト教団出版局、2002年4月15日発行、292頁f。

このところ同性愛キリスト者をテーマにした本を何冊か読むこととなりました。この本は出版されてからすでに10年以上がたっていますので、現代の状況には当てはまらないところもあるのかもしれませんが、この結論として編者であるジェフリー・S、サイカーさんがおっしゃっておられるところが教会としての良心的な一つの指針ではないかと思いました。残念ながら現在の教会の皆さんがこのような理解をしているとは言えませんが、牧師として教会に仕えるとすればこのような理解の教会にお仕えしたいと思いました。

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