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共同体は集会である

〔教会は聖霊の共同体〕

2015年10月14日(水)

ルターの緊急の願いが認められて、「共同体(ゲマインデ)」という語が教会(キルヒエ)という語の代わりになったなら、大いに良かったのですが。
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教会共同体は、聖霊によりイエス・キリストと共に集まる人びとの集会です。
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私は聖霊を信じる、教会、共同体の存在も信じている、という観点から信じます。
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キリスト教会は自然にできたものでも、人間の歴史的決断によるのでもなく、神の召し(コンヴオケイション)として、文字通り召集として成立し存続しています。
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教会が自然の生活共同体と、それゆえたとえば民族共同体と重なるところでは、常に誤解の危険の恐れがあります。教会は人の手によって造られることはありえません。だから熱心な素早い教会の設立は、アメリカでも時にはオランダでも生じたように、気遣わしい事柄であります。

カルヴァンは教会のために好んで軍隊的概念を用い、信仰者の部隊と言いました。軍の部隊は常に命令に基づいて集合するのであって、自由な申し合わせによるのではありません。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、549f。

教会は神さまによって召し出された共同体であって、自然の共同体、民族共同体ではありません。ましてや薪が一本ではあまり燃えないのがたくさんの薪が集まれば互いに燃やされる、などといった個人の信仰が燃やされるための道具として人間が作成した共同体が教会なのではありません。

聖霊によってイエス・キリストと共に集まる人びとの集会が教会なのです。ですから人数は関係ありません。聖霊によってイエスさまと共に集まるならば、さまざまな違いのままに、そこに教会が生まれるのです。さまざまな違い、たとえば民族、宗教、性別、性的指向、学歴、職業、政治的立場、歴史認識などなど一切の違いのままに、集まる所なのです。今の教会がそのような違いのままに集まれていないとすれば、それは、キリストのからだである教会が分断さえていることであって、十字架上で裂かれたイエスさまからだがいまだ裂かれたままであって、とても悲しいことです。

私は牧師として召されたのですから、すべての違いのままに集うことのできる教会にお仕えしたいと思います。

(祈り)
神さま、あなたの共同体である教会に住まわせてください。


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