〔収穫感謝 ― 神の良き被造物〕
2015年10月2日(金)
神がお造りになったものには、従って何一つ非難すべきものはありません。私たちがそのおうなものとして嫌悪し、恐れ、避け、逃れずにはおれない荒寥たるもの、悪いもの、危険なものはなにもありません。
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なるほど、無秩序で、邪悪なもの、危険なものであるゆえに唾棄すべきものも存在します。私たちの生活と世界はそれに満ちています。唾棄すべきものは、断じて神によって造られてはいません。
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だがこのような唾棄すべきもの ― 多くの、多くの唾棄すべきもの! ― が存在するということ、それは神のお造りになったものはすべて良いということを何一つ変えません。そのことを私たちは、また悪魔は何一つ変えることはできません。私たちが自らの生活と世において、神の良き被造物と関わり合うということ、しかしそれは、私たちが経験する一切を感謝の念を抱いて受け入れ、それとつき合って宜しい、ということが常に至るところで認識されなければなりません。
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感謝の念の表明は、神の恵みに出会い、それをこのようなものとして認識し、従って、まさに恵みを受けることが許され、受ける必要があるように受け入れる、そのような人の姿勢と態度を示しています。
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人が神の恵みとして認識し受け入れる、それゆえ感謝の辞をもって受け取ってよいものは、神の良い被造物であり、従って唾棄すべきものではありません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、529f。
神さまのお造りになられたすべてのものは素晴らしいものであり、感謝して受け入れるものです。しかし人がその罪によって、ゆがめてしまったものがこの世に存在しています。素晴らしいものとゆがめられたものを峻別することが難しいのですが、少なくとも感謝して受け入れるとき、それらは素晴らしいものであるといえるのでしょう。
感謝とはただ自分にとって都合の良いものということではなく、ただ一方的な神さまの恵みによって、お恵みいただいたものとして、受け入れるということです。
自分の力ではなく、ただ神さまの恵みとしていただいたもの、そのように受け入れるしかないものは、すべて神さまの素晴らしさの中にあります。
(祈り)
神さま、あなたのお造りになられたものを感謝して受け入れることができますように。