〔愛の賛歌 ― Ⅰコリント13章〕
2015年9月24日(木)
愛は賜物ではなく、徳ではなく、状態ではなく、能力ではなく、何か神に提供された可能性を追い求めるように人びとが「追求」できる体験でもありません。
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愛は、たとえいかに徹底的に深く現実化されていても、神を認識することです。
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一切の神的啓示とそれにより創られた人間的可能性は、たとえ非常に意味があろうとも、不十分です。ここには努力せよ! もなければ、追求せよ! もなく、ステップを一段一段前進することもありません。
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完全なものが出現するということ、私たちが子どもから大人になる、私たちが知られているように顔と顔を合わせて知り認識する以外に、私たちは何を期待しているのでしょうか。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、510f。
愛に生きること、それは神さまにお出会いすることである、ということでしょうか。
愛を人間が追求できる体験としてしまうことは、人間的なものに引き下ろしてしまうということであり、そこに人間の罪があるということでしょうか。
私たちが愛と思い込んでいることにおいても罪を犯してしまうということでしょう。
ただ神さまにお出会いすること以外を期待する罪性から自由にされなければなりません。
(祈り)
神さま、あなたにお出会いすることのみに期待をする者とならせてください。