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男と女の相対互性

〔男と女〕

2015年9月5日(土)

神の掟に従順に、男は女への「同盟」と「所属」と「慈しみ」の中に生活し、そのように女は男への同盟と所属と慈しみにおいて生活します。
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「他のものへの方向づけ」は彼ら二人の「本質」を作り出します。
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両性に与えられる方向づけに、二人の本質があるわけですが、これは、三つの語で説明できます。すなわち、二人は相互に「見合う」べきであり、一方が他方を通じて「尋ねて知り合う」、繰り返しお互いの前で「責任を負い合う」ことであります。

互いに「見る」とは、相互によく知ること、もっと正確に言うなら、知ろうとすることです。・・・こだわりのない目で、寛大な心で、常になお新しいものを発見する。よりよく見るために学びつつ常にもう一度人生の角を曲がって行く心構えができていることです。・・・人間的に生きるとは、自らの性が他の性について驚くことをやめてしまわぬことです。

しかし、一方は他方によってまた自らのことを「尋ねられて知る」はずであり、そうならなければなりません。男は女により、女は男により不安にさせられます。相対するものはまさに各々の男に、各々の女に尋ねます。なぜあなたはそんなに私とは全く違っているのか。・・・女性は男性にとって常に緊張の種であり、同様に男性は真に女性にも緊張の種です。人間的に生きるとは、あの(深刻な)問いを聞き、それに耐えることであります。

そしてまさにこの問いは男女双方に今や、お互いに「責任を負い」合うことへと呼びかけます。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、478f。

男性であること、女性であること。それは常にお互いの相対して深い意味と目的をもっています。「見合うこと」「尋ねて知り合うこと」「責任を負い合うこと」という意味と目的をもっています。

男性的な女性もいれば、女性的な男性もいますし、LGBTにおいてはさらに新しい理解が求められていますので、見合うこと、尋ねて知り合うこと、責任を負い合うことも、複雑化しています。難しいことは分かりませんが、その複雑化はより豊かな人間社会への一つの道かもしれません。

(祈り)
神さま、さまざまな違いが互いの豊かな歩みに、そして社会の豊かな歩みに実を結びますように。


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