,

出会いの全体性

〔性的生活〕

2015年9月4日(金)

出会いが精神の、愛の、だがまた労働の、さらに彼らの生活全体の喜びと苦悩の共有により包括されているなら、二人の生活全体があるところでたしかにこの関係をも必要で、真実、正しいものとするなら、出会いは、「純粋な」、誠実で、現実に性的なものであります。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、476f。

人間は、男女の関係における純粋さというものを、ただその感情だけで考え始めるという性質をもっています。結婚生活がいつの間にか形式的なものだけに陥っているかのように錯覚し、いわゆる真実の愛を求めて、結果不倫という形に陥ることを、さも「純粋」などと主張する人びとがいます。はたしてそれが純粋なのでしょうか。
自分の責任や、共に生きるとかつて誓った自分の誓いを反故にし、その場の感情に振り回され自分勝手に行動している、まったく不純なこと、だけなのではないでしょうか。

純粋な男女の関係、その出会いとは、「全体性」をもってはじめて純粋なもの、真実なものとなりえます。

(祈り)
神さま、男女の出会いにおける全体性を得させてください。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: