〔同胞としての人間〕
2015年8月26日(水)
出会いの中にある存在の本質は、人びとが互いに自分の存在の行為において相互に「援助」し合うことにあります。
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従って人間的な行動は非人間的な行動から区別され、全く愛他的行動とは違って、利己的な行動から区別されます。利己的行動は ― 実際「健康な利己主義!」というものはありますが ― それがこのようなものとして自己を否定することなく、あなたから私というものへ発せられる呼びかけの奉仕に向けられているならば、その時は全く人間的です。そして愛他的行動は ― つまり極めて不健康な愛他主義があります! ― それが他者に向けての一方の呼びかけから出なければ、一方がその際、自分は他者に今は必要と見えるようには、他者が自分には必要でないという妄想にとらわれて行動するなら、その時は極めて非人間的であります。
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私たちはお互いに代り合って互いに立ち入ることはできません。私はあなたの人生を、あなたは私の人生を生きることはできません。私はあなたの責任を、あなたは私の責任を代わって引き受けることはできません。私とあなたは交換可能ではないからです。すなわち、私とあなたは共存しているだけではなく、その相違においても、究極の被造物的現実であります。
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イエスの存在と行動に対応することを、私たちは相互に援助を行いつつ、もっとずっと限られた形で行うのであります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、461f。
「利己的行動」に対して「愛他的行動」。
愛他的行動とは「他者の利益のために外的報酬を期待することなく、自発的かつ意図的に行動をすること」とのこと。
健康な利己主義と不健康な愛他主義。
もし自分が神さまのようにふるまうならば、不健康な愛他主義に生きることになります。
神さまの前に一人の被造物として、限界のある人間として行動するならば、健康な愛他主義に生きることができるでしょう。健康な愛他主義とは、健康な利己主義でもあるのでしょう。
相互援助と限られた形での援助に生きる人間関係が大切です。
この世には、無限の援助を期待する人がいます。あるいは不健康な利己主義で相手に援助を期待する人がいます。そういう人は、相手の限られた援助の前に「あなたは偽善者である」と非難の目を向けます。非難された方は、その方が善人であればあるほど自分が「偽善者」といわれたことに傷つきますので、何とかしようと思うか、逆に深く落ち込んでしまうか・・・。実は不健康な利己主義で相手に無限の援助を期待する人ほど、この「偽善者」という言葉が相手をコントロールするのに効果的であると知っています。ですから最大の防御は、そのような言葉に傷つかないということでしょう。傷つかないためには、自分が偽善者であるということをそのまま受け入れていればいいのです。人間は皆偽善者なのですから。「あなたは偽善者だ!」と言われたときに、「そうなんです。おっしゃる通り偽善者なんですよ。すみませんね。あなたの期待に応えられなくて。この世界にはもしかしたらあなたのその不健康な利己主義に答えられる方もおられるかもしれませんので、ほかを当たってください。あなたが偽善者だと思っておられるような私にこれ以上期待してはいけませんよ」と、実際には言わなくても、心のなかでそう思っていればいいのです。それでも十字架と甦りをもって贖い愛してくださったイエス・キリストは、私への愛を決してお捨てになることはありませんから。
そういう人は、自分の人生を自分が生きなければならないということが分かっていないのです。理想的にはそのような人に「自分の人生は誰も代わってくれないので、他者や現実が自分の思うようにならないからと言って、問題の責任をいつも他人のせいにする生き方をやめて、しっかり自分の人生を生きなさい」と教えてあげなければならないのですが、そのような助言にはおそらく耳を貸されないでしょう。人間の心は、他人の説得では変わらないものなのです。
残念ではありますが、自分が被造物として、限界のある人間として生きるためには、自分自身の限界をわきまえ知って、そのような人を何とかしてあげなければならないという利己的根性から解放されて、ひたすら距離を置くことに努力しましょう。
神さまの前に、お互いに被造物である限界を知ることが大切なのです。
(祈り)
神さま、健康的な愛他的行動に生かせてください。