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教会は神の国を想起させる

〔教会共同体と市民共同体〕

2015年7月29日(水)

国家にそうするよう唆そうとする教会も、あまりに無思慮な傲慢さの罪を犯す、と非難されるべきでしょう。
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教会が「神の国政治」を行うべきであり、行えると思うならば、教会は神の国を自らの側で自然法的理想と取り違えたのではないでしょうか。
教会はこの場合、特に新たに現実の国家と同様、教会自身にまず将来の神の国を思い起こさせることが必要なのでしょうか。否であります、自由な教会はこの途上でもこのような目にあうことはないでしょう。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、418f。

国家を神の国にしようとするのは「無思慮な傲慢さの罪」ということであり「非難されるべき」ことであるということ。
教会が神の国そのものであるとするのは「自由な教会」にふさわしくないということ。
いずれも神の国は、神さまの完全なご支配ということであって、この地上に人間の勝手で引きずりおろしていはいけないということでしょう。

ですから教会はその自由さにおいて神さまの国を想起させるものでありつづけます。
教会は信じるものです。

(祈り)
神さま、地上の教会が神さまの国を想起する自由さに生きることができますように。


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