〔教会共同体と市民共同体〕
2015年7月26日(日)
教会は国家のために祈ることで、神に対して国の責任を負うことになります。もし教会が国のために祈るだけで済ませ、国のために祈っても、国のために活動的に働かないならば、教会は真剣に祈ってはいないでしょう。だが国家のために教会が活動的に立ち入り関与するとは、国がその権能を神の命令の成果として、そして教会をも縛り、教会をも義務付けていると認めることであり、教会がその秩序を教会にも意味ある正しいことだ、と尊重することであります。
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国家の存在においても表明されている神の恵みと忍耐をはっきりと福音的に熟知することで従うのです。
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神の御意思に対して責任感に溢れて、キリスト者が神に教会内と同様にここでも自由な心から出てくる従順に行う活動において―たとえここでもそこ教会とは違う目的を持ってであろうと(「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」マタイ22章21節)―捧げるのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、413ff。
祈るということは、何もしないということではなく、むしろ積極的に関わっていくということです。そして関わるということは、たとえ教会とは違う目的を持ってであろうとも、喜びと感謝をもって従っていくこと、そして捧げていくことです。
この世に仕えるということは、そういうことであり、キリスト者に与えられている使命です。
(祈り)
神さま、この世にあってあなたに仕える教会とならせてください。