〔国家権力に対する抵抗〕
2015年7月20日(月)
国家権力に対する抵抗の問題は、私たち自身が過ごした日々、1938年と1944年の間の年月に少数だけでなく、非常に多く真剣に、一部はキリスト教的に真剣に考えた男たちにも、ドイツで「アドルフ・ヒットラー」個人に関して課された問題であって、まさにそれは彼らによって論理的に決定的に「積極的に」答えられていたのです。
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当時の諸事情にあっては、やはりあの破壊のもとになる断固たる権力を持つ人間の肉体的破壊によってのみ阻止されうるのだと。
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他ならぬこのような状況において、これを実際に成就することこそが、神の命令でありえたし、命じられた従順でありえたのです。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小槌千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、404f。
簡単に言うと、あの状況の中ではヒットラーを暗殺することは、神さまのみ心であった、とバルトは語るのでしょう。
平和な時代にある私たちは何も言うことはできませんが、しかし現在においても犯罪が行なわれているのを見て見ぬふりをしてしまうことはよくないことですし、それによって弱者が困難や悲惨な状況の中に置かれてしまっていたとすれば、それを解放するために何かをすべきであることはやはり必要なことでしょう。
日本国憲法には
「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
とあります。
この憲法を順守しつつ、国際平和に貢献する道を模索するのが、現代日本に課せられている大切な神さまのみ心であると思われます。
(祈り)
神さま、世界が一つになって平和でありますように。