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知られたる神と隠れたる神

〔神の神性〕

2015年6月30日(火)

この信仰こそ、神の神秘に対する致命的な驚愕です、なぜなら信仰は、神ご自身がその神秘の中へ隠れるのを見るからです。神が隠れておられるのを知っているつもりの懐疑は、いまだこの致命的な驚愕ではありません。懐疑は、神が隠れている、ということについて神ご自身から教えられてはいません。
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神は人間にシナイ山とゴルゴタの闇において対峙なさるまさにその時、人に働きかけておられる。神が人を支配する時こそ、神は人の傍らにおられる。人から「遠くに」いるときこそ、神は人の「近く」にもおられます。

私たちは神の自由と権威をたたえるとき、口ごもります。なぜならそれは、私たちが自由と権威として理解しうる一切よりも偉大であるからです。でも、神をそのようにたたえることは正しくかつ必要です。というのはまさにその尊厳において神はご自身を認識するようにされたからですし、神はご自身について語られ、神は、私たちが神から出たものとして「自らを証し」されたからです。
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神の全き見きわめがたい尊厳において、神は私たちにとって見知らぬ方ではなく、私たちを最高の現実においてあらゆる側から取り囲む主であられます。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、373f。

神さまは、尊厳においてご自身を認識するようにされた、とバルトは語ります。
神さまを知ろうとするならば、この「尊厳」を学ばなければなりません。そしてその尊厳よりも偉大であることをわきまえ知っていなければなりません。

尊厳によって神さまを求める、神さまを知るということですから、私たちは教会において、その集いにおいて、また日々のデボーションにおいて、この尊厳を大切にしなければなりません。
ひざまずくこと、へりくだること、祈ること、自らが小さくなること、沈黙することによって、神さまに出会い、神さまを知る者とされます。
神さまはそのために私たちの肉体の目に見えない存在となってくださいました。
信仰の目によって見える存在となってくださいました。

(祈り)
神さま、あなたのまえに沈黙し、ひざまずく者とならせてください。


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