〔礼拝〕
2015年6月14日(日)
神礼拝の生活はひとつの「行動」であり、活動(アクション)でありますが、それはたとえば技術的あるいは軍事的あるいは政治的活動と同じように、まさに実質的に実行されるべきものです。
・・・
まさに教会のこの存在と持続が意味しているのは、教会において、休むのでも待つのでも夢を見るのでも眠るのでもなく、働きがなされることです。
・・・
働きとは教会では「聴く」こと、つまり神の言(ことば)を、神の言を通して啓示と信仰を聴くことであります。全世界に、神の言を聴くこと以上に全力を集中するべき、骨の折れる、感動的な働きは存在しません。神の言を繰り返し新たに、ますます忠実にますます力強く聴くこと、これです。教会の礼拝の内容はこの活動にあります。教会は説教し、教会は洗礼と聖餐を執り行う。教会は感謝を捧げます。神の言を聴くからであり、その言を繰り返し聴かなければならないからです。
教会は、神の言を聴いたことがあり、再び聴かなければならない人びとの集会として集まるからです。教会は神の言を聴くことで神に仕えます。・・・教会は、聴く教会であるその程度に応じて、真の教会であります。
私たちが今日カトリックとプロテスタントの領域において教会の礼拝として知っているのは、未完成の作品(トルソー)です。カトリックは説教なしで聖餐礼拝〔ミサ〕を行います。私たちプロテスタントは聖餐なしでの説教礼拝を行います。・・・洗礼と聖餐はいわばキリスト教礼拝の自然な活動領域を形作っています。
しかし、この活動領域が私たちプロテスタントの礼拝においてはたいてい目には見えなくなっています。聖礼典のない礼拝は外面的には不完全な礼拝であるということすらも分からなくなっています。
・・・
本来の教会の活動を表す神の言(ことば)を聴聞する際に大切なのは、結局は両聖礼典によって特徴付けられるあの中央で行われることです。
・・・
すべての人が聴く人であり、またまさにそれゆえ万人祭司であります。教会には聖職者階級も一般信徒も存在しません。特別な職務の担い手たちと教会の残りの構成員との間の、教える教会と聴く教会の間の相違は技術的な相違に過ぎず、原則的な相違はありえません。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、347f。
礼拝は神さまの活動であり、同時に人間の活動です。
礼拝における人間の活動は、なによりも「神の言を聴く」ということです。
真の教会であるかないかは、この神の言を聴くということにかかっています。
いくら施設が大きく、また充実していても、あるいは人がたくさん集まっていたとしても、あるいはさまざまなプログラムや生き生きとした魅力的な諸活動がなされていたとしても、「神の言を聴く」という「活動」が、不十分であるならば、それは真の教会としては不十分であるといわざるを得ません。
逆になにもなくても、「神の言を聴く」ということに熱心であるならば、それは真の教会であり、真の礼拝が行われているのです。
神の言を聴くということは、何よりも、聖餐式と説教においてなされます。この二つのことが大切です。この二つのことにおいて教会は「神の言」を語り、「神の言を聴く」のです。
聖餐式を二の次にするプロテスタント教会があるとすれば、それは真の教会ではありません。
(祈り)
神さま、みことばを聴く者とならせてください。またみことばを聴くことを何よりも喜びとする者とならせてください。