〔飼葉桶のかたわらで〕
2014年12月25日(木)
子である神は、「人間の本性」をとったのであって、「ひとりの人間」をとったのではない。
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神はイエス・キリストの誕生において、ただ単に、一人の人間になっただけではなく、人間性そのものをとったのである。それゆえ、イエス・キリストの体は、われわれの「肉」となったのである。イエス・キリストはわれわれの肉をまとった。したがって、イエス・キリストがいるところには、われわれもいるのである。われわれがそれを知っているかどうかには関係なく、受肉によってそうなったのである。
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イエス・キリストが人間の本性をとったのは、われわれが永遠に彼と共にいるようになるためである。
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もしあなたがたのひとりが、「私の本性、私の全本質は救いようがない。私は永遠に失われた者だ」と嘆くとしても、クリスマスの福音は、「あなたの本性、あなたの本質のすべては受け入れられている。イエスがそれを担うのである。イエスはこのようにすべてを受け入れることによって、あなたの救い主となったのである」と語りかけるであろう。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、631ff。
自分の言動の足りなさ、醜さを思い返し、悲しみと絶望に打ちひしがれることがしばしばあります。なぜあんなことを言ったのだろう、なぜあんなことをしたのだろう、と。キリストの福音を理解しているつもりでも、その苦しみは毎日のように私を襲います。
しかしクリスマスの福音は、そのような私を、ご自分のところに招いてくださった神さまの愛を語ります。神さまは私と共にいてくださるのです。そして私は神さまのところにおらせていただいているのです。
(祈り)
神さま、嘆きの時も、あなたのところにおらせていただいていることを、静かに受け入れることができるように、健やかな信仰に生かせてください。