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自分で自分の罪を許しているだけではないのか

〔あなたのもとに王はいないのか〕

2014年12月8日(月)

神の前で自分の罪を告白するほうが、兄弟(姉妹)の前で罪を告白するよりやさしいのは、どうしてであろうか。
神は神聖なる方、悪に対する正しい裁き主、すべての不従順の敵である。
しかし兄弟は、われわれと同じ罪ある人間である。彼は、自分の経験によって、夜の間にひそかに犯される罪についてよく知っている。
だからわれわれは、兄弟の前で自分の罪を告白するほうが、聖なる神のまで罪を告白するよりもやさしいと考えるのが普通ではないであろうか。

<われわれは、神の前で自分の罪を告白するかのようなふりをしながら、しばしば自分自身を欺いてきたのではなかったか。われわれはむしろ自分に対して罪を告白し、自分で自分の罪を許していただけなのではなかったか>

<われわれが本当の罪の許しによって生きているのではなく、自分で自分の罪を許すことによって生きている>ところに原因があるのではないか。

自分で自分の罪を許すことによっては、決して罪から解放されない・・・われわれを罪から解放することができるのは、裁きと恵みを与える神の言葉それ以外にはない・・・。
この確かさは、神が、兄弟を通してわれわれに与えてくれる。兄弟が自己欺瞞の鎖を断ち切ってくれるのである。兄弟の前で自分の罪を告白する者は、そこでもはや自分はひとりではないということを知るようになり、兄弟がそこにいるという現実の中で、神が確かにいるということを経験するのである。

罪はいつかは明らかにされなければならない。そうである以上、終わりの日に最後の審判の光のもとでそのことが起こるよりは、今、私と兄弟の間で起こるほうがより良いのではないであろうか。
それゆえ、われわれが兄弟に対して自分の罪を告白することを許されているのは、恵みなのである。
それは、最後の審判の恐怖を免除されることなのである。兄弟が私に与えられているのは、その兄弟を通して、すでにここで、私を裁いたり、私に恵みを与えてくれたりする神の現実を確かなものとして受け取るためである。

ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、604f。

兄弟姉妹のまで、自分の罪を告白することは、恵みなのです。

(祈り)
神さま、あなたのまえに、そして兄弟の前に犯した罪をゆるしてください。どうか兄弟の前に罪の告白をすることができるように助けてください。


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