〔あなたのもとに王はいないのか〕
2014年12月6日(土)
罪を告白することによって、十字架への通路が開かれる。
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兄弟の前で罪の告白をするということは、最も屈辱的なことである。
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この屈辱は、大変つらいことなので、われわれはいつも、<兄弟の前で罪を告白することを避けることができれば・・・>と考えている。われわれの心はひどく曇っているので、このような屈従の中にある約束と栄光を見ることができないのである。だが、人々の前で、われわれに代わって罪人の屈辱の死を身に負ったのは、実にイエス・キリストという方であった。彼は、犯罪者としてわれわれのために十字架につけられることを恥としなかった。そして、われわれをこのキリストの十字架に本当にあずからせるために、われわれを罪の告白という「屈辱の死」に導くのは、実にイエス・キリストとわれわれの交わり以外の何ものでもないのである。
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われわれは、罪を告白することによって、イエス・キリストの十字架によってもたらされるまことの交わりに至る道を歩むのであり、罪を告白することによって、われわれの十字架を肯定するのである。
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古い自分は、死滅するが、しかし、神が古い自分に勝利したのである。そして今や、われわれは、キリストの復活と永遠の生命にあずかるのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、601ff。
十字架こそ勝利のしるしです。
最も屈辱的な死を経験してくださったイエスさまが私と共にいてくださるのです。このイエスさまとの交わりの中で、私も私の十字架への道が開かれていきます。
罪を告白するという十字架への道が開かれていきます。
その道にこそ、尽きるこのないいのちの道です。
(祈り)
神さま、罪の告白をなさせてください。十字架のイエスさまを見上げつつ。