〔信仰、希望、愛〕
2014年11月26日(水)
「このように、いつまでも存続するものは、信仰である。」(第1コリント13:13)
自分の偉大な行為によって生きることのできる人間はひとりもいないし、またそのような教会もひとつもない。人間も教会も、ただ神のみが行なった偉大なわざ、すなわちイエス・キリストの十字架によってだけ、生きることができるのである。
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人間は誤謬を見ながら真理を信じ、罪責を見ながら赦しを信じ、死を見ながら永遠の生命を信じるという行為によって生きなければならないのである。人間は見ることはできないが、神のわざと恵みを信じて生きるのである。
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教会は苦悩を見ながら救いを信じ、誤謬を見ながら神の真理を信じる。教会は福音に対する裏切りを見るが、神の真実を信じるのである。福音を信じる教会は、目に見える聖者の交わりでは決してない。むしろ一切の外見に逆らって、恵みを信じ、ただ恵みによってだけ生きる罪人の教会なのである。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~』
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、583f。
神学校の時に指導してくださった先生が、教会とは信じるものである、と教えてくださいました。目に見えるところは、誤謬と罪責と死、福音に対する裏切り、罪人であるかもしれません。けれどもそこに、神さまの真実の愛を信じるのです。
ただイエスさまの十字架の愛を信じるのです。それこそいつまでも残るものです。
(祈り)
神さま、人間を、そして教会を信じる者にならせてください。